NewsLetter 第89号 2002年2月発行

日本女性学会NewsLetter

(*会員に送付しているペーパー版の「学会ニュース」とは内容が一部異なります)

女性学会ニュース第89号[PDF] 2002年2月発行


 学会ニュース
日本女性学会  第89号 2002年2月

次回大会予告

(略)

■女性センター情報4

 

次回大会会場仙台エルパークより

木須 八重子(せんだい男女共同参画財団)

エル・パーク仙台は、1987年にオープンした仙台市の女性センターです。七夕で有名な東一番町通りとケヤキ並木が美しい定禅寺通りが交じわるこの場所は、仙台市の文化、行政、観光、交通の要所でもあります。また、この建物は当時、市街地再開発ビルの中に公共施設が入り、一体的な運営を行っている成功例としても、関心を呼びました。
二つのホールを持つセンターは、今でも、年間17万人が利用し、市民利用文化施設という側面も併せ持っていますが、一方では、このことが施設を女性センターとして理解されにくいという課題も残すことになりました。今、東北地方各地に続々女性センターがオープンし、まさに、東北からも力強い変革の動きが現れています。エル・パーク仙台は、男女平等に関する啓発事業をはじめ、相談、託児事業を行ない、東北地方の男女平等の取り組みの底上げの役割を一定果たしてきました。中でも、特筆すべきは、グループ活動支援のための「女性サークル室」の存在です。今や、女性センターばかりでなく、市民活動支援施設には必ず併設される、印刷機やロッカーなどを備えたフリースペース、このアイデ
ィアと精神は、ここから全国に広がっていきました。
昨年4月、男女共同参画社会基本法の施行も受け、仙台市は、その取り組みを一層強化するために、(株)せんだい男女共同参画財団を設立しました。財団はエル・パーク仙台の施設と事業の管理を市民文化事業団から引き継ぎ、施設の位置付けもより明確になりました。
今年の6月、仙台市内はワールドカップサッカーの公式戦開催、イタリアチームを本拠地として迎え、何かと賑わっていることでしょう。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

■研究会のお知らせ

 

日時 2月18日(月)、 6時30分〜9時
場所 文京区女性センター (丸の内線本郷三丁目下車3分)
tel 03-3814-6159
講師 ジャクリーヌ・ベルント 横浜国立大学人間科学部助教授
「米国の日本研究からみたエロマンガ/レディスコミック」
北原みのり
「オーストラリアのポルノ規制と日本の現状比較」原稿募集

次号(5月上旬発行)掲載希望の原稿〆切は3月末日。

臨時特集:
テロと戦争にフェミニストはどう対抗するか

 

●あげた手をおろす 上野千鶴子

昨年の同時多発テロ以来、なんともやりきれない思いが続いている。テロは許せない。何の関係もない民間人の命を奪ったのは卑劣だ。怒りがわく。そしてこぶしを握りしめて手を挙げる……その手をどこにふりおろそうというのか?
アメリカは挙げた手を、アフガニスタンにふりおろした。世界最大の軍事大国が、その軍事技術の粋を尽くして、長年にわたる戦乱で疲弊しきった貧しい小国をたたきのめした。ブッシュ大統領が決断したこの宣戦布告なき戦争、国際法にのっとらない他国への攻撃行動を、アメリカ議会はたったひとりの反対を除いて支持した。世論の圧倒的多数派も大統領の決断に賛意を示した。たったひとりの反対派は、バーバラ・リーという女性議員だった。女は平和主義者なのか?いや、彼女以外のすべての女性議員は賛成にまわったのだし、ブッシュの軍事戦略の影には、ライス長官という女性の参謀役がいる。国民の8割の支持のなかには、当然たくさんの女性が含まれている。
小泉政権がただちにブッシュ支持を表明し、テロ特措法を性急に決めたとき、日本国民の賛否は、男性と女性とでは逆転した。女性のほうが武力の行使にためらいを示した。だから日本の女は平和主義者だと言えるだろうか?半世紀前、女たちが翼賛の旗を振ったことをおぼえているわたしたちは、女だというだけで自動的に平和主義者だということにはならない、と知っている。

新聞の投稿欄に、女性のつぶやきが載っている。アメリカのアフガニスタン攻撃に批判的な感想をもらした彼女に、夫は声をあらげてこう言った、という。
「だからって、何もしないわけにはいかないだろう?」
アメリカの男は、アメリカの女たちも、おなじように言う。アメリカのフェミニストもそう言う。
「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」
わたしはそれを聞くたびに思う。アメリカのフェミニストは、フェミニストである以前に、アメリカ主義者だ、と。彼女たちはいったい何をしているのだろうか?声が聞こえてこない。そう思っていると、タリバーンが女性から職をとりあげ、教育を禁止し、ブルカを強制した性差別者だ、だから攻撃してもよい……という声がとどく。わたしのきもちわるさは募る。これがフェミニズム?武器と暴力でおしつけられる「解放」って何だろう?フェミニズムとは、他者の救済ではなく自己解放、なによりも自己定義権の獲得のことではなかっただろうか?「これがあなたにとって解放よ」と、当事者以外のだれが、アフガニスタンの女に「教えてやる」ことができるだろう?
理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみながら拳をおろす。そんな経験を、わたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。夫に殴られつづける妻も、食ってかかって反撃したりはしない。なぜか。自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力なものには親しい。
「だからって、何もしないわけにいかないでしょう?」
そう言えるのは強者の権利。強大な軍事力という危険な道具を手にしたもののおごり。
わたしは湾岸戦争のときに、あるアメリカのフェミニストと激しい議論をしたことを思い出す。湾岸戦争を批判したわたしに、彼女はこう言ったのだ。
「だったらあなたはフセインの蛮行をだまって見ていろ、というの?」
そう。そのとおり。ヒロシマの人々は、アメリカの蛮行をされるがままに受けいれた。ニカラグァの人々もアメリカの侵攻を黙って耐えた。なぜなら……無力だったからだ。
もしあなたが無力なら、あなたは反撃しようとはしないだろう。なぜなら反撃する能力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその能力があるときにかぎられる。そしてその力とは、軍事力、つまり相手を有無を言わさずたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
反撃の道が封じられているとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう?問いは、ほんとうはここから始まるはずだ。同じだけの力をつけたらよい、という答は、相手と同じ土俵に乗ることを意味する。それができないからこそ、無力な者の思想がためされる。
わたしはフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重されることを求める思想が、フェミニズムだと、わたしは考えてきた。
だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じようにちからづくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。

アフガニスタンでは「戦争」がまだ続いている。挙げた手を、いつ収めればよいか、事態の収拾の時期をブッシュはつかみかねている。最近の世論調査によれば、「ビンラディンを拘束するか殺すまで、空爆をつづけるべきだ」という意見に、アメリカの多数派が賛成したという。テロ対策、つまり「自衛」が、この正統性のない攻撃の大義名分だから、「敵」将の首級を挙げなければ、矛を収めることはできないのだ。
しかもこの機に乗じて、「テロとの闘い」の名のもとに、イスラエル政府によるパレスティナへのあからさまな武力攻撃が始まった。ゲリラ的な攻撃や自爆テロに対する「報復」として民間人の住む街や施設が破壊され、犠牲者が出る。アメリカのアフガニスタン攻撃と同じ論理、同じやりくちである。そしてアメリカとおなじく、それをおしとどめる力はどこにもない。アメリカは「テロ対策」と称して、フィリピンにも軍隊を送り、軍事行動を開始した。「テロとの闘い」という名目さえあれば、アメリカの軍隊は世界中いたるところで主権を無視して軍事行動をおこすことができる。「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)」が、あからさまな暴力で支えられていることを、こんなにも目に見えるようにしたのが、ポスト冷戦の効果というべきだろうか。
アフガニスタンの人々にしてみれば、犯人だという証拠もなくどこにいるか所在もあきらかでないビンラディンという、しかも外国人のために壊滅的な打撃を受けることになった。ピンポイントというが、爆撃は軍事施設だけを破壊するわけではない。その下にいる人間を殺傷し、民間人を犠牲にする。アフガニスタンで犠牲になった6万人といわれる人々は、いったい何のために死ななければならなかったのだろうか?
空爆の恐怖を覚えている人々が日本にはいる。そのひとたちは、空爆下のアフガニスタンの人々に、半世紀前の自分のすがたを重ね合わせている。11月26日の朝日新聞の歌壇には、次のような歌があった。
「空爆のニュース日すがら流れいてむせび泣くなり沖縄の母 新里スエ」
東京大空襲では10万人の人々が死んだ。主として民間人だ。空爆は第1次世界大戦のときにドイツがはじめて考案し、ただちにイギリスが追随した。しかも民間人を直撃する都市のじゅうたん爆撃だ。なぜこんな無法な攻撃方法が、戦争犯罪と見なされなかったのだろう?非人道的攻撃と?だが、日本という国は、核兵器さえ非人道兵器と主張することのできない国だ。
しかしただちに次のような問いが浮かぶ。合法な戦争というものはあるのだろうか。人道的な攻撃は?戦争犯罪というからには、犯罪にならない戦争があることになる。「戦争犯罪」というかわりに、どうしてわたしたちは、「戦争が犯罪だ」ということができないのだろう?
日本人の一国平和主義とは言われたくない。女は本質的に平和主義者だとも信じない。もしわたしたちが、今でもそしてこれからも、フェミニストをなのりつづけるなら……憲法ナショナリズムにもジェンダー本質主義にもよらない非戦・非暴力の論理を構築することが、思想としてのフェミニズムに求められている。もしあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことができなければ、わたしたちはDVすら解決することができないのではないだろうか。

●アクティビズムの必要性 レベッカ・ジェニソン

昨年の11月にアメリカの国際法に反する「報復戦」がエスカレートしていた。イスラムの人々にとって重要なラマダンに入っても、「空爆は中断しない」とブッシュが宣言した頃だった。「みやビジョン」というケーブルテレビ会社がイギリスのBBCとの契約を止めたために、私は仕方なく、CNNを見ることになった。
湾岸戦争のときより、メディア操作が徹底しているといわれているなかで、アメリカのテレビで絶対報道されないことは、地上戦、難民キャンプやアフガンの人々が直面している飢餓の危機、世界中で高まっている「反米」の意識、そして、アメリカ国内にある「反戦」の運動などなどであった。しかし今回、さらに特徴的であるのは、「ブッシュ型女性解放論」であり、これは湾岸戦争のときにはなかったメディア戦略である。
11月16日の各社の新聞一面には、「ブルカをとり、笑顔でカメラを見ている」アフガンの女性の写真が載った。同じ日に、大統領夫人のローラ・ブッシュが初めて全米ラジオ放送に登場し、「テロに対する戦いは、女性の権利と尊厳を獲得する戦いでもある」と訴えた。ローラ・ブッシュの演説の最中、 1992−97年の間、戦時下の虐待で「有名な」北部同盟のドスタム将軍が、アメリカの軍事的支援を受けながら、カブールに侵入していた。その数週間後、ブッシュ大統領自身が、「アフガンの女性/子供たちは、十分苦しんだ。われわれの偉大な国アメリカが、彼女らを救済し、希望を与えるように、最善の努力をしています」と演説した。
日本においても、アメリカのメディア(報道)に対するさまざまな分析や批判が行われているが、ここで、10月15日という早い段階にインダパール ・グルワール他、6人の女性学研究者たちが出した声明文の一部を紹介したい。 ”Transnational Feminist Perspectives Against War”という声明文がProfessors for Peace (http://www.action-tank.org/pfp) というホームページに掲載された。それは、目の前で起きているメディア操作や、暴力/武力の推進の仕組に光を当て、反帝国主義、反レイシズムをめざすフェミニズムの立場を主張しているものとして、私は11月なかばに興味深く読んだ。(この長い文章の翻訳する時間もエネルギーもなかったので、一部を要約しここに紹介する。読者にはなるべく原文を直接みていただきたい。)

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  1.  非暴力の解決を求めることは勿論のこと、今回盛り上がっている「国家主義」の徹底的にジェンダー化、人種化された効果を分析しなければならない。例えば、メディアにおける戦争報道のなかでは、強制的異性愛とその二元論的ジェンダー役割が再生産されていることに注目しなければならない。
  2.  アフガンの女性たちが、飢餓、暴力に日常的に直面していることは、タリバン政権の責任だけではなく、むしろ、もっと長い間続いた植民地や戦時化の状況のためである。アメリカの責任も大いにある。戦争という暴力の下で、ブッシュが「文明」と「救済」を説くのは納得できない。
  3.  「テロリズム」というtropeを解体しなければならない。そのトロープが冷戦構造において、「反テロ」対策を名目にして、どれだけ、どのように利用されてきたか。そこで、「テロリスト」とレッテルを貼ることでどれだけ人種差別を再生産してきたか。また、新しい「危険な」カテゴリーである「ムスリム」の人々にも注目しなければならない。
  4.  ムスリムの女性たちの不在、または、「ビクティム」(犠牲者・被害者)として、組み込まれていく、取り組まれていくことに注目しよう。同時に、「白人」や「西洋人」としてみられる女性たちが「救済者」、文明の代表として表現されていることにも注目しなければならない。メディア産業におけるイスラム文化への攻撃に対して、フェミニズムのアプローチがどのように組み込まれ、悪用されているかを分析しなければならない。
  5.  軍事的介入に反対する。それが西、中央アジアに広がりかねない危険性を認識しよう。国家主義的、二元論的用語を拒否し、人種差別的なプロファイリング(意図的なイメージ作り)を許さない。国家主義的、または国際的軍事介入を、「女性解放のため」というな発言は絶対みとめない。
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今日の新聞の一面に「アジア・アフリカ人のテロプロファイリングが開始される」と報じられている(International Herald Tribune, Jan. 20, 2002)。21世紀の始まりが暴力/武力の暗い影に覆われているなかで、「トランスナショナル」、anti-racist, anti-imperialistなフェミニズム 理論とアクティビズムもますます必要になっていると思う。

以下のホームページ参照:
Professors for Peace Website: http:www.action-tank.org/pfp
Flanders, Laura. “Beyond the Burga,” ZNet Commentaries, Dec. 14;http://www.zmag.org/

■研究会報告

「ポルノと性表現をめぐって」研究会報告

12月25日、予定していた紙谷雅子さんが急遽参加不可能になり、幹事の江原、船橋、細谷の3氏の報告について参加者10人で活発なディスカッションとなった。
3人の報告は、ポルノ問題について、規制の根拠と可能性という枠組みでおこなわれた。
ポルノグラフィの定義については、性表現に対する受け手の側の快/不快の問題、すなわち個人の主観的質的解釈や、性表現が他者に及ぼす影響、すなわち客観的量的解釈に、定義の尺度を還元してしまうことによって問題が見えにくくされてしまうのではないかという意見が出た。
結論として、ポルノグラフィの定義は、法規制に賛成派と反対派の人々の言説を実際に分析しなければわからないので、何を議論の主題とするにしても、その前段階として、その議論を行う前の準備が必要であるということで一致した。
個人の嗜好やニーズ、すなわち個人の自由と自己決定の問題と他人への迷惑の問題は、例として、たばこの喫煙が取り上げられ、消費者個人の自己決定の問題、喫煙者のマナーおよび喫煙のルールの問題、生産者側の問題、という観点から議論され、ゾーニング制やグレード制によって規制する方法も出たが、たばこの喫煙とポルノグラフィを同列に論じることの問題点として、ジェンダーブラインドな議論に陥っていることが指摘された。
むしろ、電車内や路上で見られる性差別的な宣伝広告に対する地道な抗議活動の重要性や、夫や恋人からのポルノグラフィの強要やポルノグラフィ制作の現場で起きている性暴力を問題化していくことが重要であるという意見が出た。
結論として、フェミニズムはポルノの法規制に対して、まずは現状の「自由主義」の言説実践に見える性差別を指摘し、他方で生身の女性のセクシュアリティの多様性を尊重していくことが重要であるということで一致した。
最後に、ポルノ規制に反対するなら、性表現の自由の保護を名目に、あたかも性的客体となることが「女性の性の自由」であるかのようにそれを固定化し、女性に対する抑圧をこれまで以上に推進するものではあってはならないし、ポルノ規制に賛成するなら、女子の保護を名目に抑圧的な社会秩序を守るための手段として利用されてはならない、と私には思われた。総じて、慎重論が優勢だった。

(文責 川畑智子)

■ホームページのご案内

2001年4月より、日本女性学会のホームページを開設しました。内容も徐々に充実し、現在、規約、入会案内、学会誌、研究会に加えて、新たにニューズレター(過去1年のもの)を見ていただくことができるようになりました。是非ご覧いただき、ご意見ご要望をお寄せ下さい。ホームページアドレスは表紙をごらん下さい。

■書評

竹中恵美子編『労働とジェンダー』  明石書店、2001年

労働の平等はフェミニズムが長く取り組んできたにもかかわらず、依然として解決の困難な課題である。近年進行している労働の女性化は、性別役割分業によるジェンダー格差を解消するというよりは、むしろ安い不安定な労働力としての女性の労働の新たな搾取のように見える。しかし市場労働への女性の登場は、支払われないがゆえに「見えない労働」であり続けた家族内の再生産労働をはじめとするアンペイドワークに焦点を当て、労働の概念を大きく変えることになった。
本書はこれまでの経済学枠組みそのものを問い直し、生産人間の再生産の経済学を提起することをめざす『叢書・現代の社会とジェンダー』全5巻(竹中恵美子、久場嬉子監修)の第2巻として編集されている。構成は第1部が総論で、労働の定義をめぐる新しい問題提起やそれをめぐる議論の検討、整理、およびジェンダー概念を導入した日本経済の分析が行われている。第2部では、日本の労働におけるジェンダー的特質を規定する要因を労働組合、労働市場政策、ビルメンテナンス業のケーススタディ、パート労働、労働時間政策などの多角的な観点から検討している。第3部では、農村労働市場、ケアワーク、ボラントリー・セクターなど、従来の労働概念の外に会った自営業、アンペイドワークをとりあげ、トータルな労働力再生産の社会化論をめざしている。
今日労働をめぐる状況は大きく変化しつつある。従来の男性世帯主のフルタイム労働を基準とする労働観では、その多くを女性が担っている、多様化し、不安定性を増していく新たな雇用形態を捉えることはできない。日本の実情に即した具体的な問題提起は大変新鮮で、学ぶところが多い。本書をきっかけとした労働とジェンダーをめぐる新しい議論の展開が期待される。

(伊田久美子)

■会員情報

キャンパス・セクシュアル・ハラスメントネットワーク関西ブロック例会
『セクシュアル・ハラスメント問題解決に役立つ相談機能を目指して〜東大の場合〜』

講師:東大セクシュアル・ハラスメント相談所・非常勤相談員 丹羽 雅代さん
日時:2002年3月21日(木、祝)  14時〜(13時30分開場)
場所:ウイングス京都(京都女性総合センター)
市営地下鉄烏丸御池駅・四条駅下車、阪急烏丸駅下車(いずれも徒歩約5分)
(京都市中京区東洞院通六角下る)  tel:075-212-7470

東京大学では、ハラスメント対策委員会が発足し、専門相談員が常駐する相談窓口をスタートさせました。全国の大学にさきがけるこの新しい取り組みについて運用の実態をうかがいます。
事前申し込みは不要です。キャンパス・セクシュアル・ハラスメント全国ネットワーク会員以外の方も自由に参加できます。問い合わせ先:三宅川(みやがわ) 天理大学おやさと研究所

天理ジェンダー・女性学研究室からのお知らせ

2002年3月24日(日)天理にて、シンポジウム「エコフェミニズムの可能性—フェミニズム・エコロジー・宗教」を開催します。
場所 天理大学研究棟3階 第一会議室
プログラム[午前の部]
基調講演
カレン・J・ウォレン (マカレスター大学教授、哲学倫理学)逐次通訳付
[午後の部]
パネルディスカッション 「日本におけるエコフェミニズムの可能性」
パネラー  河上 睦子(相模女子大学教授)
小原 克博(同志社大学助教授)
萩原なつ子(宮城県環境生活部次長)
堀内みどり(おやさと研究所助教授)
詳しくは下記までFAXでお問い合わせ下さい。プログラム、宿泊案内、交通案内等をお送り致します。
天理大学おやさと研究所
天理ジェンダー・女性学研究室 シンポジウム係
FAX 0743-63-7255 担当 金子珠理

■会員の活動

白水紀子『中国女性の20世紀−近現代家父長制研究』明石書店

深澤純子、堀田碧・森野ほのほ『ジェンダーセンシティブからジェンダーフリーへ−ジェンダーに敏感な体験学習』すずさわ書店

『子どもは私の生きがい』−DVサバイバーへの援助
(インスー・キム・バーグのソリューション・フォーカスト・アプローチ入門)
日本語版60分ビデオ、消費税・送料込み10,000円
DV(ドメスティック・バイオレンス)の被害者への有効なカウンセリングの一つの方法が示されている面接のビデオです。
制作・販売・問い合わせ先:カウンセリングSoFT 玉真慎子

栗原涼子『日米女性参政権運動史 The Japanese Woman Suffrage Movement inComparison with the American Movement』 信山社 5,300円