NewsLetter 第87号 2001年8月発行

日本女性学会NewsLetter

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女性学会ニュース第87号[PDF] 2001年8月発行


学会ニュース
日本女性学会 第87号 2001年8月

2001年度大会報告

総括

河野貴代美(代表幹事)

日本女性学会2001年度大会が、千葉市女性センターとの共同主催で6月9日(土)・10日(日)に行われました。女性(男女共同参画推進)センターとの共催は、フェミニズム(女性学)を地域の市民により知ってもらい、何らかの形で参加してもらえるいい機会です。千葉市のセンターはまだ開設されて1年半にしかならないために、建物が新しいのみならず、発表用の電子機器が完備していたのはありがたいことでした。紙上を借りてお礼を申し上げておきます。
さて、学会のフレームワークは例年と変わらず、特別部会(ラウンドテーブル方式)、懇親会に、個人研究発表(7本)、ワークショップ(3本)でした。
「女性学の制度化をめぐって」と題されたラウンドテーブル方式のディスカッションは、参加者200名弱という盛況。このテーマを取り上げた動機等は発題者、上野さんがすでにニュースレター86号にお書きになっているために繰り返しません。またディスカッサントの発表内容も、学会誌の編集委員の立場、リカレント教育受講者、近過去の「師ー学生」という関係性にあった者、など多士さいさいでした。
もともと「アンチ体制」(草の根的)として出発し、そこにカウンターフォースとしてのアイデンティティをもっていた女性学も、思えば遥かな道をきたものです。もういやおうなく「制度化」しているとの上野さんの指摘は的をえたものでしょう。トークンのような地位をしめているところもあることを考えれば制度化は不十分(江原)という意見も聞くべきものがあります。研究(専門知)と当事者性(日常知)の乖離(浅野、上野)、世代間格差・問題意識の違い(江原、浅野)、ポストが容易にない(大海)などの指摘がありましたが、なかなか論議を深めることができませんでした。その上に、観客には多様な人がいるわけで、テーマにそぐわない質問が出て、これは今後の課題だと思います。いずれにしても司会をふくめた9人のうち7人までが大学教員であってみれば、おのおのがこの制度化という現実をいかに認識し、「よりよい制度化」へ向けての取り組みをすすめるか、今後の大きな課題といえるでしょう。

特別部会〈女性学の制度化をめぐって〉

各発言者の報告要旨

・細谷 実

女性学のアカデミックな制度化が意味することは、女性学がそれ自身の内部に、金銭的基盤と、目的・モチベーションと、評価システムと、人的資源のリクルートシステムと、理論内在的な問題枠組みと問題群とを持つようになったということである。
かつては三位一体として存立していた「女性問題」と「女性運動」と「女性学」の中から、理論としての女性学が切り離され自立してきたわけで、研究者は「学問としての学問、学問のための学問」をしていくことが期待され、学習者は既製の理論体系と研究蓄積とを真理視することとなり、それらをお勉強していくことが 課せられる。問題は、
(1)自他共に認めるような研究者たちの制度的権威化の弊害。
(2)ある主義主張を持った思想(女性学もそうだ)が制度化されていく時の、ある種、護教的な態度が実践されていく危険性。
(3)若い世代は、上の世代が作った学問にまず出会う。自分たち自身の問題と運動と思想の三位一体から出発することの困難化。
(4)評価およびリクルートシステムは、たてまえとしては男女無差別に開かれる。その中で、「女性の女性による女性のための学問である」という制度化以前の女性学の性格付けは、特に「女性による」という部分は、否定される。それによる変質の可能性。

・深澤純子

7号、8号の学会誌の編集委員を務めて、女性学にかかわる人々もずいぶん様変わりしたのだとの感を強めた。
私が日本女性学会に入会したのは1987年、藤枝澪子さんに声をかけられて「視覚イメージの政治学」という大会セミナーで発表することになったのが、きっかけであった。美術大学で自分の経験した女性差別や西洋美術についての疑問を、ひとりであれこれ考えたり、調べたりしてはいたが、自分自身は「学会活動」なるものとは終生無縁であろうと思っていたので、躊躇が先にあった。しかし「何の権威もない」ということを聞いて、安心して入会した。そこでいろいろな分野の方とフェミニズムについて語ることは本当にたくさんの果実をもたらしてくれた。
そのうちに、自分もいつしか自治体の女性学の講座などで講義やワークショップの講師を務めたり、大学の非常勤もするようになったりと、自分が女性とアートに関して考えてきたことを、少しずつ外へ向けて表現するようになってきた。そんな手作りのプロセスで力となったのは、問題意識を共有する人々との数え切れないほどの話し合いが持てたということに尽きる。
学会誌に寄せられた投稿論文は、8号の編集委員会有志の小文でも触れているように、修士・博士課程の人で論文としての体裁が整うことに注意を払ってはいるが、フェミニズムの「魂」の希薄なもの、逆に自分が伝えたい思いはあっても説得力のあるかたちにまとまっていないものとに二分されることであった。投稿数は、ここのところ毎号20編以上ありながら、双方の要素がきちんと折り合いまとまったものになって、掲載に至るものは毎号2、3編に限られてしまう。なぜだろうか。6号の編集委員会のころから、この問題意識は継承されていた。
学会誌編集作業も、学会員が主体的に担っていることは、会員に共有されていることだと思っていたが、当日フロアから私に向けられた質問で、私のことを会員ではない専門の編集者であるとの前提のものがあったことに驚いた。私が編集委員を引き受けたのは(実際は他のメンバーに引っぱられたこととはいえ)、学会誌の編集という活動も、会員としての表現であるし、また義務であると思っているからであり、日本女性学会の活動自体が女性学の実践的な活動だと思っているからである。
女性学の専門化は専門家によってのみ担われているのではなく、本来プロとアマの境もないことがめざされているはずだ。学会誌『女性学』は、専門性に妥協する必要もない最もこわい読者を相手にしている、と誇れるものになるべきだと思う。
ステージに乗っている時に気づいたのだが、ステージに乗ったスピーカーのほとんどが国立、公立大学の関係者であった。これは女性学の「制度化」の実状を象徴しているのではないだろうか。

・上野千鶴子

日本の女性学は、制度化のふたつのオプション、統合か分離か?のうち、女性学部・学科を設立するという分離戦略の方向に行かず、結果として統合戦略を採用したことになる。そのなかで、学知の再生産の制度化を経験しつつある女性学が、今日直面している問題点を、現場の担い手のひとりとして、あらいだしてみたい。
わたしの専門分野である社会学のなかにおける、ジェンダー研究の教育目標は、(1)ジェンダー研究の分野での国際競争力のある人材の養成、および(2)社会学分野における(男性と競合しうる)競争力のある人材の育成、のふたつであるが、その過程で以下のような問題群に直面している。
(1)専門知と日常知の乖離
(2)統合による効果と逆効果(専門ディシプリンへのとりこみ)
(3)専門分野内における周辺化・ゲットー化
(4)世代間格差(動機づけ、アジェンダ設定、運動経験等)
(5)就職の困難
詳細に立ち入る余裕がないが、別稿を期したい。

・江原由美子

これまで10数年にわたり大学院で指導してきましたが、私は、大学院生の研究意欲や問題関心の持ち方にそれほど大きな相違が生じているとは思っていません。確かに主題には大きな変化があります。しかし、問題関心の切実さという意味では、現在の院生も、非常に強いものがあるように感じています。世代間に相違があるとすれば、むしろその問題関心をストレートに研究に結び付けられるかどうかということについての期待に違いがあるのではないかと思います。自分の世代では、まずそういうことは考えられなかった。けれども女性学の制度化が、「これを研究の主題として良いのだ」という期待を形成してしまった。ところが、「女性学の制度化」は実際には非常に不十分であり、さまざまな学問で必ずしも高い評価を受けているわけではない。論文評価や就職において必ずしも高く評価されないわけです。授業科目名・専攻名・学科名・学部名などにまで制度化されていない。教員個人の研究教育活動にとどまっています。教員の恣意が院生の状況を大きく規定している。こういうことの結果、期待と現実の落差という点では、現在の院生は過去の院生以上に、厳しい状況に置かれてしまっている。ここをどう解決するかということが、私は最も重要な問題だと思います。そのために日本女性学会ができることは何かを、討議できればと思います。

・浅野千恵

私が大学生だった80年代後半、現代思想がブームとなり、そのひとつとしてフェミニズムが登場した。家族や性といった問題を学問として取り上げる点に共感を抱き、女性学研究者を志した。後に指導教官となって下さった江原先生のもとに相談に伺ったとき、「自分は大学院を職業教育の一環として考えている」と言われ、「この先生なら」と思ったことを覚えている。
しかし、進学してみると、自分が思い描いていた状況とはかなり異なっていた。アカデミズムではフェミニズムや女性学は必ずしも評価されておらず、日常的な差別や偏見も根強い。そのために、志半ばで大学院を辞めていく女性たちも少なくないように思う。私自身、修士論文では「フェミニズム」という言葉を使わず、社会学のジェンダー研究としての体裁を整える「努力」をした。
大学院修士課程2年、博士課程8年の計10年間、私は大学院に在籍し、ようやくこの春に地方の女子大に就職した。これまで、なかなか就職できないのは自分の努力不足なのか、女だからなのか、こういう分野の研究をしているからか、それともポスト自体が少ないからなのかと、あれこれ思い悩む日々だった。しかも実感として、大学院生だった時にはそのような疑問を口に出したり、意識化したりすること自体を抑圧する力が働いていたような気がする。私たち若い世代は、当事者性が希薄だとか甘えているとかの批判も受ける。けれども、女性学やフェミニズムを正面に据えて学位論文を書くようになった初の世代であり、固有の困難も存在するのではないだろうか。今後、これらの問題になんらかの形で取り組むことができないかと私自身は考えている。

・千田有紀

シンポジウムでわたしに与えられた課題は、女性学の制度化のメリット、デメリットについて、大学院生時代の経験を織り交ぜつつ述べることだった。
制度化のメリットは、「研究テーマの正当性」が調達されることである。大学に女性学の専門家が来る以前は、フェミニズムというテーマを論じる妥当性を説得することに、研究の労力の大半を割いていた。どの分野でも新しいテーマを研究しようとする場合は同様のことが起こるのかもしれないが、これでは実際の研究に入る前に、若い研究者志望者が疲弊してしまう。
制度化のデメリット(?)は、にもかかわらず、女性学の専門家がいたとしても、アカデミズムの組織がもつ権力構造は、依然として存在するということである。とくに大学院生は、就職予備軍であり、組織のなかでは弱い立場にいる。このことは、一番セクハラのターゲットにされやすいのが大学院生であるというセクハラ調査結果などが、端的に示しているだろう。
女性学が制度化されることで、体制内化されてしまう危険性はある。しかし男性中心主義的に生産される知の現場に食い込んでいくことも、重要であると思われる。今後の課題は、各組織で女性学のポストを複数創設することの抵抗をどう改善していくかということである。また指導学生と指導教官を、同一視するような傾向にも危惧を覚えている。

・船橋邦子

女子大学の存在意義が問われる中で、大阪女子大学の女性学研究センターは、大学の特色・看板としての役割を果たしてきた。
地域に開かれた大学として府民向けの「女性学連続講演会」や「公開講座」、自治体の女性政策担当者に向けての「男女共同参画推進事業」の実施、女性学理論を深めるためのコロキアムの開催、副専攻としての女性学の位置づけ、韓国梨花女子大学アジア女性学センターとの学生フォーラム・アジアにおける女性学カリキュラムの構築にむけてのプロジェクトへの参加などの事業を実施してきた。しかし破産宣言をした大阪府の限られた予算の枠内では、事業開催のための予算獲得が専任研究員の任務であり苦労をした。
女性学の制度化のために女性学研究センターの果たす役割は大きい。韓国ではすでに11大学において女性学の修士課程がある。梨花女子大学では女性学の専任教師は5名、インドの女子大学の女性学センターの内容も日本と比較にならない程充実し、抑圧された女性の解放の学として、その存在は大きな位置を占めている。
女性差別や暴力のない、公正な社会の実現に向けて女性がいかに力をつけるか、そのための制度化こそが問われている。

・大海 篤子(おおがいとくこ)

私は子育てを終える頃、地域の活動を基盤に仲間が区議会議員に当選したことがきっかけになって1987年に法学部に入学しました。選挙が終わり、議会活動が始まったとき、議員も仲間も議会のことをほとんど知らないことに気づきました。その選挙で、地方議会に女性が出て行く流れはできたと思われましたが、選ばれる人も、支える人も政治、政治学、法律に疎い女性が多く、運動の発展を期待した私は、法律や政治学を学びたいと思ったのです。活動の中で学んだばかりの法律知識を生か
すチャンスがしばしばあり、本当に楽しく学びました。
活動家としての経験は、学問への意欲をもつ2つのきっかけをもたらしました。1つは政策に関して学びたいという意欲です。もう1つは、自分が女性であること、私と私の仲間に関していえば、主婦であることへの問い直しであります。自分の生き方、矛盾、問題を解決するための学問は、女性学が有効であろうと思っても、どこで学ぶことができるのか、現在の教育制度では見つけにくく、自治体の講座やフェミニズムの本を読んでも、すっきりとしない思いを抱いて日々を過ごしていました。私の場合は、お茶の水女子大学という数少ない女性学が制度化されているところを知り、活動家として学問に近づく2つの機会を生かすことができました。その点で、私は制度化された場で学び続けられた恵まれた立場ではありますが、メデタシ、メデタシというわけではなく、厳しい年齢差別のために、研究者としての道がほとんど閉ざされており、その戦いは熾烈で、現在の私は活動家と研究者の真中で揺れています。

◇フロアからの感想◇

・北田幸恵

大会第一日目午後の「女性学の制度化」をテーマにしたラウンド・テーブル・ディスカッションは、河野貴代美氏の司会で上野千鶴子氏、江原由美子氏など八名の発言者によって行われ、現在の女性学がおかれている状況を実によく反映したものとなった。この二十年余における日本の女性学の制度化の着実な広がり、そこで生起している多様で複雑な問題が浮き彫りになった。女性学とのかかわりの来歴と自己の場所。既成の学問分野との遠近度、ジェンダーか女性学か、アクティヴストか研究者か。教員か大学院生・学生か、大学院生・学生でも社会人か否か。女性学コースの設置大学・大学院か否か。業績を判定する側か受ける側か。その他、世代、地域などの複合的組み合わせによる立場により、一つの事象も複数の解釈・評価が成立する段階に入ったことをの発言者たちの発言はよく示していた。日本女性学会ならではの率直でユーモアある発言が相継ぎ、壇上とフロアが一体となった活力のある全体セッションであった。
一定の制度化の中で、女性学がかかえこまざるをえない問題は、多面的に具体的に提出されることにより、参加者の共通の認識となったと思われ、その意味で今回の討議の意義は十分認められよう。ただ、今後の制度化の方向や課題については、アプローチが希薄だったという観は否めない。国際的な女性学の進展の中での日本の女性学の制度化の特有な課題、その克服の社会的条件などについての総括的な発言も聞きたかった、という感想も抱いた。特にこの種の議論にはじめて接する参加者のためにも議論のコンテクストがわかる設定が必要ではないだろうか。全体としては、今回のセッションは女性学の「現在」を自己検討する意義ある積極的な試みであった。と同時に、「いかなる制度化か?」という問題は今後に残されたように思われる。

・瀬山紀子

女性学は制度化されたのだろうか。そんな疑問を抱えながらラウンドテーブルを聞いた。確かに、女性学を銘打つ大学での授業や「ジェンダー論」コースなどが大学の中に存在しつつある。が、一方でキャンパス・セクシュアル・ハラスメントなど、大学の構造そのものに根深く存在する性差別構造が発する問題が問題化されながらも、それを個人的問題へと矮小化して捉える傾向が大学内に存在している。女性学が、大学も含めた社会のなかの「性差別」を問題化し、それに対する抵抗を行う学として制度化されてきたのか、といえば、やはり疑問が残る。今回のラウンドテーブルでは、大学という場や、そこに属している人々が、「当事者」の立場で問題を語った。大学院生という同じ立場を共有する私自身は、多くの問題を我が事として受けとめられる立場にいた。しかし、ラウンドテーブルで提起された多様な問題、例えば、(「女性学」を志向する)大学院生の孤立化という問題や大学を含めた
学問の評価・選抜基準をめぐる問題などが、互いに絡み合う問題としては議論されなかったのではないか。また、8号学会誌で提起された「権威化」の問題も、それが「制度化」とは別の問題であるとして、今回のラウンドテーブルのなかでは、深められることがなかった。「制度化」が、「権威化」をもたらす危険性や、学問としての女性学が実践や運動(定義は様々ではあるが)とどのように結びついているのか、といった問題は、現在の制度化に関する議論のなかで、今後さらに論じられるべき課題なのではないかと考えた。

◇特別部会を受けて:紙上シンポの提案

上記のように、大会では多様な論点が挙げられ、とても刺激的な集まりでした。しかし、限られた時間での中で、消化不良の面もあったかと思います。言い足りなかった人、発言しそびれた人がたくさんいるようです。当日参加できなかった人たちも含めて、ニューズレターで「紙上シンポジウム」として討論を続けましょう。どしどし投稿下さい。その口火を次号編集担当の伊田さんが切ってくれます。さらに、議論を受けての提言が内藤さんの方からあります。

紙上シンポ投稿は1000字以内、あて先は伊田
次号〆切は9月20日です。

・伊田久美子

とくに大学院生の立場からの問題提起に私は関心があったのですが、院生問題については、OD問題、就職差別問題、大学非常勤講師問題等の、研究者の労働問題とのつながりを充分議論したかったと思います。それがないと大学という特殊な空間での特殊な問題、という受け止め方しかされないのではないでしょうか。
依然として女性研究者がマイナーな存在であり、女性学の周辺的位置付けが相変わらずであること、大学院での指導や専任教員採用人事で女性が差別されがちであること、女性学の研究職が乏しく、それによって生計を立てていくのが困難であることは、制度化が不十分であることの結果であると思います。
不充分に制度化された女性学教育研究は、院生、OD、非常勤講師の不安定低賃金、あるいは無償の労働によって支えられています。実際女性学関連授業の多くが非常勤講師によるものです。社会運動の要素を持つ女性学はやりがいのある授業である一方、「女性学を発展させたい」という気持ちに「つけこまれやすい」面もあります。制度化の不足分が女性労働の搾取によって補われていると言えるでしょう。
同じことが自治体関係の女性センターの活動についても言えるのではないかと思うのです。こうした活動は予算が乏しく多くは非常勤、嘱託、アルバイトなどの低賃金不安定労働、あるいはボランティアのような無償労働によって成り立っています。女性学を学んだ人たちが学んだことを生かしてできるやりがいのある仕事なのですが、ここでもそうした「やる気」が搾取されやすく、無制限の貢献を要求されがちです。実態としてはたとえば主婦のような、とりあえずカネには困っておらず、女性学に関心があって、モチベーションが高い、という人たちに支えられているのではないかと思います。
将来の見通しの立たない労働、無償労働、あるいは失業状態は、見えにくい権力関係の温床です。NOが言いにくく、際限のない「貢献」を、表面的には「積極的に」に行わざるを得ない、という働き方が生じやすいからです。
せめて女性学の領域で生じる女性労働の搾取には、できるだけ敏感でありたいと思います。現状では根本的解決が難しい問題ではありますが、労働条件の観点からのよりよい制度化を求めていくことが必要であり、そのためには女性学に関わる人たちの間で、雇用条件のちがいを越えて問題意識を共有したいと思います。

■「女性学副専攻プログラム化/単位互換」に関するワークショップ(仮)の立ちあげについて

 内藤和美

6月9日のラウンドテーブル「女性学の『制度化』をめぐって」では、多様多次元の”制度化”が論じられました。そうした中、今具体的に追求・実現し得るのが「女性学の副専攻プログラム化」であるということについては、多くの会員が認識を共有したように思えます。そこで、この機運を形にし、各地・各大学での副専攻プログラム化を促進するために、学会内に何らかのかたちでワークショップを立ち上げ、これについての情報の集約や交換、情況分析、課題解決のための議論等の拠点としていきたいと考えました。折しも本年実施されるヌエックの「高等教育機関における女性学関連科目等の調査研究」の教員調査の中でもこれが扱われる予定であり、それらとも相俟って副専攻プログラム化の検討・追求が促進されればと願われます。なお、関係する事項として単位互換等についても検討したいと思っております。ワークショップの立ち上げ・運営を共にしてくださる方を募ります。E-mailをお待ちしております。
連絡先:内藤和美

大会のその他のプログラム報告
■ワークショップ

(1)非暴力と平和の文化を創造する:非暴力ワークショップ

 主催者 竹下美穂

カウンセラー、学生、公務員、教員、主婦など8名が、クエーカー教徒の反戦、反核運動や沖縄の反基地運動などに基づいたトレーニングに参加した。
まず、裁判所や警察署など権力を象徴する建物について、参加者が交互にジェスチャーによる表現をし、他の参加者がそれをあてるゲームを行った。
次に2人一組になり、約束を破った方と破られた方の二つの立場を交互に演じるロールプレイをした。謝り方や非難の仕方に、参加者一人一人の攻撃的もしくは妥協的な性格がかいま見えたようである。
次のロールプレイは、図書を長期間借りて返却した時の状況を、2つの異なったシチュエーションで行った。お互いに相手の非をとがめだてしたため険悪化したケースと、お互いに自分の非を先に認め、穏かに解決するケースである。ただ、DVなどでよく見られるような、相手の非だけをとがめる人と自分の非を認める人の組み合わせも演じてみれば、より実態に即していただろう。
2人組みで、後出しで負けるじゃんけんをした。ほとんどの参加者は、負けるためのじゃんけんには戸惑いがみられた。じゃんけんなどゲームでは勝つ方法しか身に付いていないことに気づかされた。
最後に様々な雑誌類を切りぬいて、暴力と非暴力についてのコラージュを作成し、互いの作品を発表した。充実した2時間半であった。

(記録 橋本ヒロ子)

(2)美術の制度とジェンダー

“女性とアート”プロジェクト

主催者 香川檀、西山千恵子、深澤純子

美術界で女性が不当に処遇されている事例が紹介され、意見交換が行なわれた。具体的に紹介されたのは、あるミニコミ批評家が映像作家の出光真子に対して書いた文章と、大分市で行なわれた「ネオダダ」の展覧会での岸本清子の扱われ方である。
前者では、女性作家に対して個人を性的に揶揄侮辱するという攻撃方法を常習的に使う批評家の、出光に対する批評文が問題とされた。出光は、この件を周囲の仲間に訴えたところ、逆に誠意無い対応をされ、いわゆる二次被害にもあっている。この批評家の氏名は、報復の恐れありということで、出光本人が記述を望んでいない。
後者に関しては、「ネオダダ」展覧会を企画した美術館が、11人の男性メンバーを丁寧に扱っている一方で、岸本に関してはほとんど下調べをせずに単に「花を添えた」女性として付け足し的に扱って済ませた方法が問われた。ワークショップのメンバーが後に申し入れたインタビューに対し、学芸員の対応は誠意を欠くものであったという。
概して、女性作家に対する評価は、性差無しとして男性原理で説明する方法、「女性の性」を忌み嫌ってそこから生じるフォルムを抑圧する方法、「女性の性」を誉め上げる方法(若い女性作家の場合)のステレオタイプになっているという。
女性アーティストが不可視化されないために、美術界の組織の姿勢、美術批評、美術館の姿勢、画廊の姿勢、教育制度が検証されなければならないという指摘がなされた。
発表後、参加者も交えて活発な意見交換、情報交換が行なわれた。

(記録 広瀬裕子)

(3)〈表現の中の暴力、表現による暴力〉からの自由

主催者:宇野朗子(さえこ)、池橋みどり

本ワークショップは、主催者も参加しているポルノ・買春問題研究会での継続的な研究に基づき行われたものである。
プログラムではポルノ映像をビデオ上映する予定になっていたが、参加者は当日会場で「上映の中止」を知らされた。「映像を見ることによって受けるショックを避けられないことが分かった。影響を考えてやめにした。」という主旨の説明があった。
問題の映像を「見ている人」と「見ていない人」という立場の違う2者間のコミュニケーションギャップを検証していくワークショップが行われたが、時間をかけて準備されたものであることが感じられた。
ワークショップ全体を通じて、主催者には、「映像を見ていない人」に何をどこまで伝えられるか。という問題意識があったように思う。だが、その問題意識がどこまで参加者に共有されていたのか疑問が残る。時間の制約もあったろうが、参加者の多様な問題意識そのものを語り合える機会があるともっとよかった。

(記録 与語淑子)

■個人研究発表

富岡 明美 レズビアンスタディーズの現在
古田 睦美・岡崎啓子・諸藤享子  自営農世帯のジェンダー分業
春木 育美 韓国における女性国会議員の議会進出過程
森  玲子 女性たちのNPO
内海崎貴子・田中 裕 学芸員におけるジェンダーバランスについての研究
臼田 明子 駐在員夫人の環境適応状況
寿崎かすみ 働く母親の増加に伴うPTA活動の変化

■研究会報告

《映像と暴力—アダルト・ビデオと人権をめぐって》

2001年5月20日(日)13時30分〜16時30分に、東京ウィメンズ・プラザで、日本女性学会幹事会とポルノ・買春問題研究会の共同企画で、暴力アダルト・ビデオ(以下、暴力AV)に関する研究会が開催された。当日の報告は、ポルノ・買春問題研究会が財団法人東京女性財団から2000年度の助成金を受けて実施した「暴力的アダルトビデオにおける女性の人権侵害の調査・研究」に基づいてなされた。この調査は、出演女性に対して実際にひどい暴力を行使していると見られるAVを収集し、それらのAVでどのようなやりとりがなされているかを詳細に分析するとともに、暴力AVを取り巻く社会状況や法的問題を批判的に検討したものである。暴力AV はレイプを演技化し、映像作品として商品化したものである。AVの撮影という形態をとれば、レイプがレイプでなくなる、レイプに見えなくなる、というからくりがある。当日は時間が不足し、これらの点に関して十分に報告できなかったので、関心のある方はぜひ報告書を読んでいただきたい。
会の中頃で、参加者に映像の一部を視聴してもらう時間を設けた。しかし、映像を見ること自体が被害体験になりうる危険性があるので、事前に視聴にあたっての注意を述べ、最初や途中で自由に退室できるよう配慮した。それでも万全とはいえず、視聴後の報告が頭に入るような状態ではなかった、もっと気持ちを分かち合う時間を持ちたかった、といった感想も見られた。さらに、映像を公開することで、被害を受けた女性たちを再び傷つけることになりはしないかと心配する声もあった。
暴力AVを社会問題化することの困難も、まさしくこれらの点に関わっている。今後は、実際の映像を見せずに社会問題化する方法についても、もっと検討する必要があろう。そこで早速ではあるが、そのひとつの試みとして、6月9日の日本女性学会大会でワークショップを開いた。
当日は最大時で80名くらいの参加があった。たくさんの方々に参加していただけたことを、この場をお借りして感謝いたします。それから、報告書は2千円(別途送料)にて販売しています。申し込みは、福島大学中里見研究室まで。

(浅野)

■研究会のご案内

《セックスワーク論とフェミニズム》

売買春問題について新しいスタンスでのアプローチを展開してきているセックスワーク論を、フェミニズムとの関連において検討の俎上にのせる。
スピーカーと報告仮題
川畑智子 セックスワーク論は何を主張しているのか?
杉田 聡 セックスワーク論への批判
細谷 実 セックスワーク論の可能性
司会は、江原由美子

2001年9月14日金曜日 18時−21時
東京ウィメンズプラザ 第2会議室
(青山の青山学院大学の向かいの国連大学ビルの右側奥のビル)
◆定員37人の部屋なので、椅子が足りない場合、立ち見になる可能性もあり。
◆女性学会会員以外の参加者は、当日会費として500円いただきます。
◆問合は、細谷まで。

■会員情報

◎日英教育研究フォーラム主催公開シンポジウム

テーマ「教育とセクシュアリティ−そこから見た日英の教育の現在」

2001年9月30日 13時30分〜
於:早稲田大学国際会議場
参加費 500円 報告書 1000円
ジェンダー概念だけでなくセクシュアリティ概念をも導入した教育制度分析を目指す方向で、日英の教育の現状を浮き彫りにする。そのためには性的マイノリティへの視点ばかりでなく、性行動のケア、サポートという形の行動の「統御」でもある性教育についての考察、家族が個々人と社会をセクシュアリティで媒介する制度であるという視点、セクシュアリティの諸現象、諸相の把握などは不可欠である。

〈シンポジスト〉

Diana Leonard (Institute of Education, London ) 「教育、ジェンダー、セクシュアリティ」
Michael Reiss (Institute of Education, London ) 「英国における若者をめぐる状況と、学校における性教育」
中西祐子(武蔵大学) 「日本における教育とジェンダー研究の現在」
広瀬裕子(専修大学 ) 「セクシュアリティ概念を導入した教育分析について」
(なお、Diana Leonardは、フランスのフェミニスト理論家デルフィーの英訳などでも知られている。日本語版は『なにが女性の主要な敵なのか』(勁草書房)。)
シンポジウムについての問い合わせ先専修大学:広瀬裕子

◎NPO『アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク』設立記念講演会のお知らせ

このほど、アカハラ被害者を中心にして、NPO『アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク』が設立されました。設立目的は、『大学、短期大学、高専、研究所など研究・教育活動の場及びそれに関連する施設に在学、在籍、勤務する人に対して、研究や教育活動の妨害、教育を受ける権利の侵害、差別待遇、いじめ、嫌がらせなどのハラスメントのない環境を確保するための事業をおこない、もって差別の撤廃、人権擁護、男女共同参画社会の形成に寄与すること』です。当面の活動は、相談と調査が主です。現在、大阪府に認証申請中で、予定通りにいけば10月中旬に認可となる見込みです。
このNPOの設立を記念して講演会を下記日程で行います。ご参加ください。
日時:10月28日(日)午後1時半〜5時
場所:大阪府 ドーンセンター(地下鉄谷町線、京阪 天満橋駅下車10分)
講演:上野千鶴子さん
大久保由紀子さん

■会員の活動

◎出版

青島祐子『女性のキャリアデザイン』学文社、1700円
まつばらけい他『なぜ婦人科にかかりにくいの?』築地書館、1400円
牟田和恵『実践するフェミニズム』岩波書店、2400円

◎その他

内藤千文「美神展」(絵画展)
9月24日〜29日ギャラリー白(はく)
大阪市北区西天満4-6-14 千福ビル2F(淀屋橋駅下車)

『女性学』原稿募集

日本女性学会誌第10号の原稿を募集します。「募集要項」ならびに「執筆要領」を次号に掲載します。
第10号からは、テーマおよび概要の提出は必要なく、原稿の提出だけになります。
締め切りは2002年2月20日(必着)で、これまでより1ヶ月早くなりました。
紙数制限はこれまでどおり論文400字×50枚以内、研究ノート 20枚以内、情報・書評 5−10枚です。(担当 橋本ヒロ子)