NewsLetter 第91号 2002年8月発行

日本女性学会NewsLetter

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女性学会ニュース第91号[PDF] 2002年8月発行


学会ニュース
日本女性学会  第91号 2002年8月

2002年 日本女性学会大会報告

 

シンポジウム:ポルノグラフィの言説をめぐって

コーディネーター 江原由美子

2002年度日本女性学会シンポジウムは、第二日の午前中から、上記の主題で開催された。まずコーディネーターから、シンポジウムの主題設定に関し、「フェミニストの間でポルノグラフィーに対する意見が必ずしも一致してないこと、その理由の一つとして、ポルノが異なる身体を持つ人々に異なる影響力を与えていることの分析が不十分なことがあると思われること。今回はポルノが男性という身体に対して持つ効果を認識することに焦点を当てること、そうした議論の積み重ねは、異なる意見を持つ人々の間での有効な議論のあり方についての示唆を得るために必要であること」などの問題関心が提示された。
報告においては、「ポルノとして見ることが出来る女性像は、自分とは無関係な女性像(モノ化できる女性像)に限られること」、「ポルノと男性の関係は、異性である女性との関係である以上に、ポルノを見ている他の男性との関係(ホモ・ソーシャルな関係)であり、男と男の序列関係を生み出すこと」、「ポルノを見たいという男性の動機には、セックスの代償としての動機はあるが、一部にすぎないこと」「男性のセクシュアリティにとって、射精は必ずしも重要ではないこと」、「ポルノを見たいという動機には、生育期において経験したトラウマの再現という動機(傷つけたい・傷つけられたい等の動機)も含まれているのではないかと思われること」、「男性が暴力ポルノを見て不快感を感じたとしても脅かされ感を感じないのではないかと思われること、そこには身体の外形に基づく現実社会におけるポジションが色濃く影を落としているように思われること、したがってリベラリズムにおいてポルノに対する見たい・見たくないの問題を趣味判断の問題と位置付けるのは、この身体の外形に基づくポジションの相違という問題に対する認識を欠いていると思われること」、「ゲイ・ポルノに関しては、強制的異性愛の秩序を転覆する可能性をもつものだと称揚する立場もあるが、そう簡単ではないこと」などの論点が提示された。議論においては女性の視点にたつ反ポルノ運動に対して持つ意味に関する意見や、男性のセクシュアリティのあり方に対する異なる意味付けや経験が提示された。
シンポジウムはこのように、ポルノグラフィーの言説がそれ自体社会的に構築されている異なる身体形象との関りにおいて異なる効果を持つこと、すなわち我々はポルノグラフィーの言説によって社会関係の中で特定の位置におかれることを、改めて確認することが出来た場となった。
なお、本報告において、報告内容に報告者個人の名称を付さなかったのは、報告者の方々がシンポジウムのために個人的経験を含む見解をあえて提示して下さったことを考えると、個人名を付す見解としてここに報告することはそぐわないのではないかと判断したためである。報告者の見解については、次号学会誌の論文を参照して欲しい。

討論者 船橋邦子

「男とポルノ」のテーマについて

今回の大会テーマについては、開催前から、フェムネットなどで批判がなされていた。
疑問の一つは、シンポの位置づけのなかの、女性学はポルノを女性差別の一形態として分析、見る—見られる、抑圧—被抑圧の二元論で捉えることで、セクシュアリティのもつ多様な側面を不可視にしてきた、という総括に対するもの、もう一つは、シンポジストが全員男性というのは不可解といったものだった。
前者の主張は、ポルノをセクシュアリティの側面から論じることより、権力関係の視点から、女性差別的表現の実態、その再生産構造に迫り、問題解決の方向性を議論するのが女性学の役割なのでは、という考えからでたものである。私自身男性社会のイデオロギー再生産装置として、つまり性差別のテキストを生む文化の構造において批判する論文を10年前に書いているし、この意見に異論はない。確かに、私たちの日常には、二元論的性差文化は健在でこの現実は、わたしたちの身体という主体をみえなくし、セクシュアリティ自体が商業主義の餌食になっていることは否定できない。それどころか、性暴力表現は不快感を与えるにとどまらず、それをみた女性たちに2次被害をもたらす。わたしは、自分の問題意識から、ポルノ産業を支える流通、販売の実態分析を行い、この大会で発表するはずだった。しかし、実態に迫るために警察庁から資料を入手しようと試みたが、それも容易ではなく、とても数ヶ月で、しかも一人の力でできることではない、と挫折してしまった。「男とポルノ」のテーマ設定は、ポルノ産業を支えている男性の話を聞くことも必要だと思ったからだ。自分たちも暴力ポルノを見たくない、といい、男性として「例外的存在」だと自分を規定する、その判断は、なにをもってそういえるのかを、もっと突っ込むべきだった。しかし男性のセクシュアリティが、中高生時代に男同士の関係において形成されるという話は、十分に納得できた。そのあたりをもっと話してもらうべきだったか。

会場から

秋山洋子

緊張感のただよう会場で「マイノリティ男性」たちの覚悟をきめての発言は、なかなか聞き応えがあった。とりわけ、「射精オーガズムの神話」を否定した森岡発言は、リブ草創期の「膣オーガズムの神話」否定に対する、30年を経ての返信といえる。シンポによって得たものを認めたうえで、残ったのは「私たちは女同士で、セクシュアリティについて十分話し合ってきただろうか」という問いである。

上野千鶴子

「有事」が問題になっている最中にポルノなんて、とか、女の目から見たポルノ批判かと期待したのに「男の語るポルノ」なんて・・・というノイズはあったが、とまれ学会シンポは成立し、結果から見れば量的にも質的にも成功に終わった、と思う。量的にはエル・パークの会議室を200人以上の聴衆が埋め尽くし活発な質疑応答がおこなわれた。質的には、この場で、この仕掛けでなければ聞けない、スリリングな展開に立ち会った。報告者の4人の男性は、みずからをまな板のうえにのせて、男のセクシュアリティの秘密をバクロするという、果敢な役割を果たしてくださった。
多くの「女性問題」がパラダイム転換を果たしたように—「売春」が「買春」に、セクハラが被害者の落ち度から加害者の不法行為へと—ポルノも、「女性問題」ではなく「男性問題」である。いいかえれば「なぜ欲望するのか?」という問いは、「欲望される側」にではなく、「欲望する側」に属する。だとすれば、あれこれの評論や批判より、当事者の明かす自分自身についての語りがいちばんおもしろい。そして実のところ、これがいちばん語られないことでもある。男に語る場合にも女に語る場合にも、男らしさのステレオタイプへの覇権的な競合のために、かれらはホンネを語るコトバを持ってこなかった。
その点では、わたしには報告者たちが「わたしは」「ぼくは」と一人称で語る経験が新鮮でおもしろかった。バリバリのヘテロ、と自己紹介する沼崎一郎さんの語るポルノ論は、「眺めて、勃てて、ヌク」「倒して、脱がして、入れて、出す」というパターン化されたヘテロセクシュアリティの貧しさ—数でも競うほかない—を、あきらかに示した。
森岡正博さんは男のセクシュアリティについて、いつも「こんなことまでばらしていいの」という率直で新鮮な発言をする人だが、今回も「射精はオーガズムではない」という「射精神話」説をとなえて、ぎょっとさせた。彼によれば、「射精が実はオーガズムではない、ことを認めるのがこわい」男たちにとって、ポルノは「快楽からの疎外」というトラウマ体験を反復強迫する表象行為であり、現実のセックスの代償行為ではない、という。「射精神話」の背後には「女のオーガズム神話」がはりついており、これも危険にはちがいないが、とはいえ「ポルノ=トラウマの再現」説は、ヘテロセクシュアリティが、「不可能」な関係であることを予感させる。この論点は、もっとつめられるべきだろう。
ゲイ・セクシュアリティを語る風間孝さんも、ゲイ・ポルノのなかにある「男性性への欲望」を率直に語った。「本当の男」という「ノンケ(ストレートの男)」幻想、そして「男性性の欠如」として語られる「男性同性愛者」。「男性性への欲望とは、自らの抑圧者への愛ではないのか?」というかれの問いは、みずからを切り裂く率直さを持っているし、ゲイとレズビアンとの関係がかんたんに「共闘」とはいかない事情を示している。
細谷実さんの報告が、一歩距離をひいて論じた点で、いちばん評論家的であった。
ポルノの視聴のしかたにジェンダーが関与することはすでに言い古されてきたことだし、ポルノを「趣味判断」に還元するのは、「趣味判断」自体が「社会的構築物」である–そのことは、かれ自身が認めている–ところでは、到達点ではなく、問いの出発点であろう。他の三人の報告者は、「何をエロティックと感じるか?」というセクシュアリティの「趣味判断」の政治学に、踏みこんで一歩をすすめてくれた。型どおりの「猥談」はあっても、その実、男は(ヘテロ男も)まだまだ、じぶんのセクシュアリティについて、じゅうぶんに語っていない、という感をつよくしたシンポジウムだった。語り始めた男たち、それも女の前でみずからのセクシュアリティの秘密について語り始めた男たちの、勇気と率直さに、感謝したいと思う。

山崎明子

これまでポルノを分析する視角として支配的だったのが男と女を両極に置く諸々の二元論であった。これは当然のことながらポルノを批判するための視角であり、男性を加害者、女性を被害者として二元的にとらえられる傾向にあった。
しかしポルノに関する議論や抗議行動は繰り返されてきたが、ポルノ文化はいまだに増大している。「表現」の名のもとに許容され、またメディアの多様化の中、法の制約をくぐりぬけ、「日常」の中に深く入り込み、記憶に刷り込まれていくことに、本当の被害者は疲弊しつつあるのではないだろうか。
その意味で、今回のシンポジウムのテーマは、状況打開を目指すうえでの契機となりうる貴重なテーマ設定であった。ポルノ文化が膨大な経済的背景をもちながら日々蓄積していった文化であるように、ポルノに関する議論も大きな蓄積を必要とする。
これまでのポルノ批判の言説を二元論と言ったが、私はこの二元論の有効性は必ずしも失効していないと考える。二元論は有効である、しかしそれだけでは語りつくせないほど、ポルノとのかかわり方は個々人の多様性に委ねられ、そして広い土台の上に、さらなる議論を蓄積していく時期が来たのだと思われる。
最初のシンポジスト沼崎氏は、ポルノと向き合う自らのセクシュアリティの問題を極めて個人的なものとして示した。自分と無関係の人間をモノ化する行為=ポルノグラフィックな態度として、ポルノが常に自らの主観的態度と関わる問題であり、「関係性」の問題であるとする。女性のヌードに関する意見として、「見てもいい裸」というもの、つまり完全にモノ化できる裸、性的オブジェとしての裸がそれであり、女性を非社会化するとともに、自分(男性)を社会化する行為であるという。
森岡氏は、ポルノには二つの機能、「教育機能」と「マスターベーションの道具」があるとする。氏の論の中心となったのは、このマスターベーションにおいて、男性は二重の疎外を受けているという点である。第一に射精神話(射精=オーガズム)とは実のところ局部的な排泄感に過ぎず、「快感」というものから疎外されている点、第二に女性が得る快感に対して自らがその「快感」から疎外されているという点である。さらに、ポルノはセックスとは異なる刺激があり、必ずしもセックスの代替物ではないという指摘もあった。
細谷氏は、ポルノの快感と不快感、さらにそれとは別の次元にある脅かされ感と、ポルノを見る主体のジェンダーの違いについて論じた。ポルノと向き合う際、「趣味判断」によって個々に快/不快の感覚を持つのだが、この性的な趣味判断は多様であり、自分の不快感をもって他者の趣味を非難することはできない。が、問題となるのはポルノから不安・恐怖を感じるような「脅かされ感」を持つ場合であり、これは見る主体のジェンダーと深く関わっている。そこでは主体的選択が機能せず、もはや犯罪被害と同様であり、それらが性暴力被害にあう現実の可能性と深く関わっていると氏は指摘する。
風間氏はエイズ前後のゲイ・ポルノの表象を解放主義とその後の規制の問題から論じた。解放主義の中でゲイ・ポルノが強制異性愛の秩序を転覆する可能性を持つと語られてきた点について、氏はゲイ・ポルノの主流でもある異性愛男性への欲望は一面で男性同性愛嫌悪を支え、それに同一化していく潜在性を秘めていると指摘する。さらに、エイズ予防介入以後、セイファーセックスをエロティック化することによって新たなゲイ・ポルノの表象が形成されていったが、そこでは従来侵入不可能とされてきた男性の身体が、侵入可能な身体に開かれていく可能性が示唆されている。表象としてのポルノは、強制異性愛の権力が作用する場であるとともに、こうした男性同性愛の欲望を引き受けることを通して異性愛の権力作用に抵抗可能な場であると示された。
以上、四名の発言を簡単に要約したが、男性とポルノの個々の関係が、思春期の男性集団の中でのホモ・ソーシャルな関係において半ば強制的に関係付けられていった点も何度か述べられていた。つまり、男同士が「モノ化された女性身体」を共有し、自らを男性として確認していく過程は、同時に女性にとっては自分の意思に関わらない身体のモノ化を仮想体験させられる過程であり、必然的に被害意識へとつながっていくのだとも考えられる。
最後に江原氏による総括として、ポルノは一様ではなく、男女に関係なく自分にとってのポルノを持っている人もいる、しかし現実のポルノとは、セルフ・レストという意味での必要性を考慮したとしても、なおそれによって傷つく可能性が多々残されている点が指摘され、これをどうするのかが重要な問題であると提言された。
リベラリズムだけでは、全てが各々の趣味判断に還元されてしまうことになり、この問題に対していかに社会的に合意を重ねていくのかという点が、今後のポルノのあり方を決定していくことになると思われる。そして、今回のシンポジウムはまさに、この社会的合意を重ねていくための重要な場であった。その場を共有できた多くの方々に心から感謝したいと思う。

大会シンポジウムについてのご意見をお寄せ下さい!!

■ワークショップ報告

 

男女共同参画時代の女性センターのあり方を考える

深澤純子

日本女性学会の大会は、女性センターで開催されることが多い。この4年間でも北九州市、大阪府、千葉市、そして今回は仙台市の女性センターの共催で行われた。このワークショップにも東北地方の女性運動グループ、行政職員、女性学会会員等30数名が集まった。仙台女性センターの木須さんから東北地方の4県、8市の女性センターの概要について説明があり、そのうち行政直営が8施設、公設民営が4施設である。他地域の女性センターの紹介もあったが、直営がいいか、NPO 等民間への委託運営がいいのかなど、それぞれの地域の事情や自治体の条件によって決まるのであり、一概にいえるものではないだろう。また政策と直結した機能としても DV 支援センター等の機能を持つもの、市民向けだけでなく行政内部にたいし各施策の推進を図る機能、また今後それら施策の評価、政策立案など、自治体の事情によってセンターが担う役割も違い、それぞれそこにかかわる人々(職員も利用者も)の工夫と実行力によって内容が決まるだろう。NPO という事業形態を使っての女性センターの運営を「安上がり」とだけで批判する向きもあるが、ある一個のセンター運営を受託するためだけの NPO というのは、委託者ー受託者双方にとって、危険であろう。地域での活動を NPO として独立して事業化し、自主事業も行いつつ、女性センターや行政の男女共同参画関係の事業も受託し、質的な競争やバランスの原理が働く条件にもっていくのがよいと考えている。そのような試行錯誤が今後も続くのだから、女性センターに関心を持つ人が集まって、実践例等を報告し経験交流をすること、このようなワークショップを継続的に設け積極的にコーディネートしていくことも、本学会の役割ではないかと考えている。

男子校学校文化とジエンダー意識形成

亀田温子

学校におけるジエンダーの再生産構造を見直す中で、男女別学がどのような機能を果たしてきたか議論がある。今回は男子校にスポットをあて、学校文化とジエンダー意識形成のありかたを男子校出身者たちに語ってもらうことからその実態を探った。
現在男子校に通う高校生については天野清子さんら(21世紀をひらくみやぎ女性のつどい)が実施した宮城県の高校生ジエンダー意識調査による報告を、学校文化については地元仙台男子校出身の大森昭生さん(前橋国際大学)、群馬県男子校出身の細谷実さん(関東学院大学)と風間孝さん(動くゲイとレズビアンの会)の報告を、70人ほどの参加者とともに耳を傾けた。
構造としては、男子校は男子生徒と同時に男性教師多数の組織であり、両者の存在が学校文化を作り出していること。男子のみであることから意識的に「男」であることを強調する必要があり、男性であることの序列化において「男らしくない男」は排除されていく。場合によっては(男性が演じた)女性を登場させることにより、男性性を際立たせることもある。文化祭などはこの男らしさを学校内で確認するものであり、さらに(学校)対抗戦などは地域にそれを拡大することでもあった。
学校の行事を作る過程で生徒会会長などには「男らしさ」の役割が求められる。こうした中で、男性らしくない自分への自己嫌悪やこれまでのバンカラ・汗くささといったいわゆる男性文化に違和感を覚え居心地の悪さを感じた体験。さらなる男らしさを目指す者、適応できない自分に悩む者。また女子は幻想を抱く対象であっても、学習や生活上の同じ場でかかわるパートナーとしては存在しない。ジエンダー、セクシャリテイにかかわる青年期の重要な体験が学校生活にかかわり展開されている。
一方、現在公立高校の別学が残存する地域では、その地域の支配層を排出しているいわゆる伝統校が男女別学として残っている傾向がある。地域の人的ネットワークは大学ではなく出身高校が重要とされることから、男子校の学校人材ネットワークが政治、自治体行政、地域、学校、商工会など地域に拡がり、男性中心な社会をつくりあげる再生産構造が存在していた。
男子校の存在が、個人のジエンダー意識形成と同時に、社会の男性中心性を再生産する機能を果たしていた一端が見えてきた。同じ別学でも女子校とは異なるこの実態をさらに明確化することが必要である。

男女共同参画社会時代のジェンダーの現在:
言説分析によるフェミニズム批評

和智綏子

まず、「男女共同参画社会基本法」の基本理念について松島紀子さんによる説明が行われた。次に高浦直子さんは、1999年を性差別問題の解消に向けた取り組みの大きな節目ととらえ、「基本法」施行の影響を受けていると考えられるセクシュアル・ハラスメントに関する認識の変化、さらに「男女共同参画社会」とは何か、に関する認識の変化について、パイロット調査(2001年)を行った結果をもとに、99年を境とした認識の変化を示した。春原千咲さんは、沖縄の現状をもとに性差別と暴力をなくすために「基本法」をどのように活用していけるのか、また沖縄での実地調査をもとに「基本法第9条」で都道府県に義務づけられている行動計画を、他の法制度や施策との関連において分析した。大橋稔さんは、基本法の多義的言説の分析を試み、その積極的側面を大切にする必要を強調するために、あえてジェンダー再編成の危険な落とし穴の可能性に注意すべき点があるということを明らかにした。さらに、「DV法」とか、憲法の「平等条項」とか、「女性差別撤廃条約」や「世界人権宣言」や「国連憲章」などの国際的枠組みを常にポジティヴに組み合わせて使っていく重要性を指摘した。フロアーからのコメントの中にも、これらの取り組みが新しい視点で分析されており、実地調査なども含めて大変興味深いものがあることが指摘された。さらなる研究の発展が期待される。

行政や政策におけるジェンダーの主流化

橋本ヒロ子

3人の問題提起に引き続いて、質疑応答と議論を行った。
最初の報告(橋本)は、国際的、国内的なジェンダーの主流化について概観し、地方公共団体におけるジェンダー主流化の手段として、基本的な根拠となる男女平等条例の制定状況とその問題点、全国に広がっている条例制定妨害、条例案を骨抜きにするバックラッシュの動きについて問題提起した。
2番目の報告(米田)は、藤枝澪子氏を中心に女性政策等担当自治体職員による研究会「グループみこし」が実施した調査結果などをもとに、地方自治体におけるジェンダーの主流化の推進体制の状況を中心とする報告と、行動計画に数値目標を設定する自治体も出てきているが、「数値化できない領域についてキーワード設定の研究が必要」、「行動計画推進には要綱制定などの手法も考えられる」ことなどの提案がされた。チェック機関の必要性、苦情処理機関の設置の際、特に、人権問題対策については、可能な限り予測される苦情とその対処方針について準備しておくことなど実際的な提案もあった。
3番目の報告(内藤)は、自治体と住民の関係が「連携」から「協働」に変わってきたのは、地方分権一括法施行後からで、典型的な例として、公募した市民約200人が中心になって策定した三鷹市の総合計画があげられた。これから自治体と市民の協業を進めていくために手続きや制度の確立、行政が市民による政策形成をいかに推進・支援するかが課題である。
発表後の討議では、「行政に安く都合よく使われないためにも、住民主体の協働である必要がある」、「バックラッシュの動きが条例制定だけでなく、家庭科教科書など教育の分野で次々と起こっている。これらへの対策としてネットワークと情報交換の重要性」が合意された。また、「苦情処理やオンブッドなどの制度ができても、女性政策担当者や審議会委員などと同様、活動が属人的になりやすい。」という問題提起もあった。自治体におけるジェンダーの主流化について情報交換とネットワークの場となったが、時間的制約で十分深めることができなかった。

■個人研究発表

・北仲千里 
「女性に対する暴力」という問題設定を考える
・新田啓子 
ジェンダーで聴く憂鬱な「プラネット・ロック」
・守 如子 
日本におけるポルノグラフィ批判思想をめぐって
・水野桂子 
ジェンダー政策と農村女性への「開発」についての一考察
・鈴井江三子 
「超音波診断を含む妊婦検診」と、妊婦への影響
・石川(中尾)有香 
英語教育からみた性差別表現の問題について
・内海崎貴子・田中 裕
博物館学芸員におけるジェンダー・バランスの研究(2)
・根岸泰子 
国語科教育におけるジェンダーフリー教材の問題
・ゆのまえ知子 
DV実態自治体調査の検討と課題 
・南茂由利子 
Catharine A. MacKinnonのジェンダー中心主義への問い
・熊谷滋子 
女性政治家をめぐる報道について
・日合あかね 
女性のマゾヒズム的傾向について

学術会議関係報告と科研費申請講座のお知らせ

文部科学省科学研究費補助金時限つき分科細目「ジェンダー」のその後につきご報告します。2001年度から認められることになった、時限つき分科細目「ジェンダー」の設定記念シンポジウムの様子は、2000年11月刊行のNLにその報告や感想が掲載されました。
当初3年の時限つきであったため、2002年の秋までしか申請できないとされていましたが、2002年4月に「時限」がはずれ、2003年度以降も申請できるようになりました。また、学問研究の変化に伴い、科研費分科細目表の改正が2003年度から行われることになり、学際的な研究分野である「ジェンダー」も、分野「複合新領域」、分科「ジェンダー」、細目「ジェンダー」と位置付けられました。
これにより申請に際し、三点の変化が生じました。一点目は、「時限」でなくなったため上限5000万円までの金額が申請できるようになったことです。二点目は2003年度以降も申請できるようになったことです。但し、分科細目の見直しが5年ごとにあり、申請件数の少ない分科細目は削除される可能性もあることなどから、申請の機会が恒久的になったわけではありません。三点目は、「ジェンダー」が「複合新領域」に位置付けられたことから、既存の学問分野からの申請も増加するものと思われ、日本女性学会に属する研究者からなされる研究テーマの申請が、今後の女性学/ジェンダー研究に大きな影響を与えることになると思われることです。
こうした状況に鑑み、2002年10月10日(木)に、科研費申請についての会を開催します。前学術会議担当幹事であった上野千鶴子さんからの報告や申請書の書き方のコツなども討議する予定ですので、ご参加ください。
場所は、お茶の水女子大学生活科学部大会議室です。
時間は午後6時からです。
詳細は、日本女性学会HPでごらんください。

(文責 舘かおる)

◆研究会費用申請の仕方について◆

 

◇会員企画研究会の企画募集

大会が年一回に減ったことを受け、研究会を活性化していくことになりました。
幹事会企画研究会を年に数回おこなう他、会員個人やグループ(自主的研究・運動グループ)のイニシアチブによる研究会についても、学会として経費補助や情報宣伝などを行って行くことになりました。そこで、会員の皆様からの意欲的な研究会の企画をお待ちしています。
以下の諸点が要件です。

  • 研究会の趣旨が女性学会の趣旨に適っているもの。
  • 少なくとも会員に対して、公開の研究会であること。
  • 研究会のタイトル、趣旨、企画者(会員個人・会員を含むグループ)、開催場所、開催日時、研究会のプログラム、全体の経費予算と補助希望額(2万円以内です)が決定していること。なお、未決定部分は少ないほど良いのですが、場所・プログラム・経費については予定=未決定の部分を含んでいても結構です。
  • 学会のニュースレター・ホームページに載せる「研究会のお知らせ」の原稿(25字×20行前後)があること。研究会の問い合わせ先を明記すること。
  • 研究会終了後に、研究会実施の報告文を学会のニュースレターとホームページに書いていただきます(研究会補助費は、その原稿提出後に出金いたします。)
  • 学会総会での会計報告に必要なため、支出金リストと、総額での企画者による領収書

申し込みは、広報期間確保のために、原則として開催の3カ月前までに、研究会担当幹事まで、お願いいたします。
詳細のお問い合わせも、研究会担当幹事まで。
今期の研究会担当幹事は、橋本ヒロ子 國信潤子 細谷実です。
今までの例では申し込みが少なかったことから考えると、採択率は高いと思います。

■会員の活動

 

東京大学社会科学研究所国際シンポジウム

 

グローバル時代の「ニュー・エコノミー」
〜日米欧の比較ジェンダー分析〜

日時: 2002年9月3日13時〜17時、終了後レセプション
場所: 東京大学本郷キャンパス山上会館(同時通訳つき)
参加者予定: 先着150人
参 加 費: 無 料
コーディネータ: 大沢真理(東京大学社会科学研究所)
パ ネ リ ス ト: シルヴィァ・ウォルビー、カリン・ゴットシャル、ハイディ・ゴットフリート、・イルゼ・レンツ
討  論  者: ジョアン・アッカー、上野千鶴子、足立眞理子、セシリア・ナン

著 書

竹中恵美子(監修)『経済社会とジェンダー』 明石書店
女のスペースみずら編『シェルター・女たちの危機−人身売買からドメスティック・バイオレンスまで「みずら」の10年』 明石書店
Colors of English編、吉原令子監修『やさしい英語でフェミニズム』 フェミックス
横山文野『戦後日本の女性政策』 勁草書房
岡野幸江・長谷川啓・渡邊澄子編『買売春と日本文学』 東京堂出版

訳 書
アンジェリス(鳥居千代香訳)『女優ジョディ・フォスター』  未来社
アレン(鳥居千代香訳)『ユーゴスラヴィア・民族浄化のためのレイプ』 つげ書房新社

「会員の活動」への掲載について

会員の出版や催し、その他の活動を本欄に掲載しますのでどうぞお知らせ下さい。